T-38A of 8AG
(1995〜1998)

上写真は、花蓮基地の外、海岸線のドライブイン付近で待っていたら、夕方降りてきた2機のT-38A。それまで 尾翼に何も書かれていなかったタロンが、この時は黒一色ではあるが何かを書き込んでいた。帰国し現像してみたら8th AGのインシグニアであり、翌年からの撮影行に一層意欲が湧いたものである。

Tail-Marking in 1996
T-38A/62-3623 (3806) in HANGAR
元Vance空軍基地の71FTWにいた機体
Tail-Marking in 1997
Sky Warriors
天空的戦士
T-38が初めて一般に公開されたのは、1995年のCCKのOHであった。この時のパイロットは、8AG直轄を示すPatchをつけていた。その後は、14,15,16の各中隊で運用されたようで、其々中隊の教官クラスが訓練を担当していたと思われる。
CCK-FOX撮影のT-38A、新竹に飛来した所を捉えたものだ。私もピーカンの順光でこのような写真を撮りたかった・・しかしT-38は、他のの基地で撮れるチャンスは殆ど無かったようで、台湾の”航空迷”達も余り撮影の機会に恵まれていない。当時、高速道の無い花蓮まで足を伸ばすのは大変だったのである。
Wings
F-5Bを中心に T-38A/F-5E/F-5F計5機で組んだ編隊
T-38A/3805+3804
T-38A/3805
T-38A/3812
T-38A/3828
HOME
T-38A/3829
T-38A/3839
T-38A/3813
T-38A/3814
純白のT-38Aタロン、昔模型メーカーのフジミが1/72でT-38Aを出していたが、その箱絵を見て以来タロンが好きになった。アメリカへの撮影行で数機撮っていたが、このタロンが台湾に来ると聞いて驚喜した私は”青天白日旗”を純白の機体に纏ったT-38Aを想像しながらその日を待ち続けた。1990年代半ば台湾空軍は、ミラージュ・I.D.F・F-16A/Bなど新型機種への転換を前に大幅なパイロットの養成に掛からねばならなかった。元々高等練習機などと言う贅沢な機種を持っていなかった台湾空軍は、岡山でのAT-3Aでの訓練過程終了後は、各部隊での複座型を用いたOJTによりパイロットを育てていた。その為どの戦闘機部隊でも複座型の数は比較的多かったが、第3世代の3機種は一挙に導入される為、人員の訓練は従来通りの方式ではとても追いつかない事は目に見えていたのだ。そこで3年間のリースでT-38Aを40機借り入れることとなった。1995年の年明けに最初の20機が花蓮港に荷揚げされ その年の5月17日に成軍式典(全てが稼動状態になり部隊としての正式な発足式とされるもの)が執り行われ、劉参謀総長(アメリカの統合参謀本部長にあたる)の閲兵を受けた。空軍では3年のリース期間の間、40機のT-38Aで総飛行時間を29000時間と計算、約500名のパイロットを育成する計画であった。   
1996年 私とCCK-FOX君は、日の暮れそうな花蓮の海岸で T-38Aを撮影した。1995年に展示された時はノーマークであったが、この時、初めて尾翼に何か書き込んでいるのが確認できた。しかし通常の8AGのマークでもなく その日は二人で「いったい何を書いていたのだろう」と顔を見合った。翌日、それがロービジの第8大隊徽と判明 いよいよ台湾もロービジ時代に突入かとガッカリしたものであった。しかし T-38については1997年に再び通常のカラーマークに戻り、反ってロービジが貴重になると言う結末になった。
T-38Aについては、3年リースと言えど再リースされ当面台湾の空で見ることが出来るだろうとタカをくくっていたが、何と本当に3年でアメリカに返してしまった。あまり撮れないで終わるなんて考えもしなかったのでノンビリ構えていたのが失敗だった。しかし本当に500名のパイロットが養成出来たのだろうか?ミラージュ2000-5導入時にパイロットの不足から成軍が予定より大分遅れたらしいのだが・・・

花蓮基地から離陸するT-38A(3818)、離陸したF-5Bを含む各種練習機は、カメラを構える我々の期待を裏切ってすべて佳山基地に着陸したようで 1機も戻ってこなかった。

T-38A/3818